2023/11/10ブログ
演出の妙
前回の記事で、1978年から1979年にかけて制作されたチューリヒ歌劇場モンテヴェルディ・アンサンブル、アーノンクール指揮の「ポッペーアの戴冠」が優れていると記載しました。
前回も述べましたが、2幕の前半で、①セネカは友人たちに別れを告げる。②セネカの友人達が〈死ぬなセネカ〉とアンサンブルを歌う。③セネカは静かに死を受け入れて退場する。④その後場面が変わり、小姓と侍女が恋に戯れつつ軽妙な二重唱を歌う、という順番で話が進みます。そして、①③のセネカの静寂で重厚な歌唱と、②④の享楽的な歌唱と瑞々しい古楽の演奏の対比、曲の変転が素晴らしいと述べました。
私は、「ポッペーアの戴冠」の幾つかの演出版を観ましたが、最も①から④の変転を楽しめたのが、上記演出版でした。その理由は、上記演出版の演出の妙にあります。
そもそも、「ポッペーアの戴冠」では、1幕の冒頭で、運命の女神と美徳の女神が互いに自分の方が影響力があるんだと張り合います。これに対して、愛の神が、世の中を動かすのは運命でも美徳でもなく、愛の力であって愛の神は運命や美徳よりも偉いんだと主張し、両女神も引きさがります。愛の神は、この世は愛の力で変わるんだと主張して、このオペラの冒頭部分は終わります。
つまり、本作のストーリーは、愛の神の力の例証であり、実際、最後にネローネとポッペーアの愛がオッターヴィアやセネカを排斥してまでも歴史を作り出すということを示すのです。
このような背景を受けて、上記のチューリヒ歌劇場の演出版では、②や④のシーンに愛の神が現れて介入し、その力を聴衆に示します。
例えば、②の場面では、セネカの友人たちが、死ぬなセネカ、私なら死にたくない、この世の生活はあまりに甘くて、見上げる空はあまりに晴れやかで、敵意や恨みは取るに足らない、ちょっと眠っただけなら朝になれば目が覚めるが墓に入ったら二度と出てこられない、だから私は死にたくない、死ぬなセネカと歌います。
この歌唱は、他の演出版では、セネカの友人は静かに歌います。そして、この場面には、愛の神が現れて介入したりしません。セネカの友人達が、この世の生活はあまりに甘くて見上げる空はあまりに晴れやかだとか、私なら死にたくないとか、現世の素晴らしさを歌う理由は、私は、セネカの哲学者としての偉大さを引き立てるためだと理解していました。自分なら現世の享楽に後ろ髪を引かれて死が怖いが、そうでないセネカはさすがだ、ということをセネカの友人たちが言っていると思っていたのです。
ところが、上記のチューリッヒ歌劇場の演出版では、②の場面で愛の神が本来④の場面で現れる美しい侍女を伴って現れ、セネカの友人達の気を引きます。それにつられて、友人達は、すごく楽しそうに侍女を追いかけながら、私なら死にたくない、この世の生活はあまりに甘くて、見上げる空はあまりに晴れやかで、敵意や恨みは取るに足らない、ちょっと眠っただけなら朝になれば目が覚めるが墓に入ったら二度と出てこられない、だから私は死にたくない、と歌うのです。そればかりか、セネカの友人達は、本来現れないはずの④の場面にまで現れて侍女に魅せられて近づいてくる始末です。
この演出だと、愛の神の影響力が露わになりますし、セネカの友人達は現世の悦楽を肯定するべく上記の歌唱を行っていると解釈できます。まるでセネカの厳粛な決意に喧嘩を売るかのような友人たちの態度ですがそれもまた演劇的に面白いのです。セネカの態度との対比が大変出ているし、何より愛の神の影響力の強さを実感できる演出になっています。
私は、他の演出版ではわからなかった①③と②④の音楽的な対比、曲の変転を上記演出版で初めて味わうことができました。何より、本演出版は、1幕冒頭の愛の神の主張が②④の場面を含めた各場面に反映されていて、ストーリーに一本筋が通っています。バロックオペラは、優雅ではありながら、19世紀前後の作品に比べると平板に感じられてしまうことも多いのですが、この演出によって本演出版はそれを免れています。
このように、同じ作品でも演出によって、観客の作品への理解の仕方や深度に大きな影響を与えます。これこそまさに、舞台芸術における演出の妙だと思うのです。
(松井 和弘)