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2023/01/19ブログ

忘れた頃に・・

新年明けてはや1ヶ月になろうとしています。おかげ様で忙しくしています。さて、この1月17日で阪神大震災から28年が経過したというニュースがありました。そうですか、もう28年ですか。思い起こせば私は当時司法試験に合格した直後ですぐに修習に行かない予定だったので人生の中でもっとも時間があったときでした。兵庫県西宮の自宅でドン!というもの凄い縦の衝撃で目が覚め、しばらく横たわっていたらゆっくりぐ~るぐると回されているような横の衝撃が来て、うわ吐きそうと思っていたら、目の前の本棚が倒れかかってきたのでヤバイと思い布団から出ました。揺れがおさまったので居間に家族全員集合。居間も酷い状態で、テレビは飛んでこたつの上に乗っかり、棚という棚は倒れ(狭い家だったので壁に挟まって傾いて)中の物はすべて放出されていました。台所は夕べの味噌汁の鍋が転がって(もちろん床は味噌汁だらけ)、食器はすべて割れ、「地震だな」ということだけは認識できたのでラジオをつけてみると大阪放送局から「あ、今地震がありました、机の上の物が倒れた程度です」という放送。「・・・へ?(ひょっとしてうちだけ?)」こういうときに冷静になる私はとりあえず弟と外の状況を見に行こうと決意。今から思うとやってはいけなかったことですが、車で近所を回ることに。外はえらく静まりかえっていました。車で走っているとガタンガタンと車がはねるし、車窓から見た景色が「何か違う」「こんなに空き地多かったっけ?」そのまま阪急夙川駅から国道43号線へ向かうと・・あり得ない光景が目の前に広がっていました。阪急電車の線路があらぬ方向に曲がりくねっており、43号線の上にあるはずの高速道路が・・落ちている!?
たいへんなことが起こったのだと初めて分かりました。
それからは数分おきにやってくる余震に怯えながら、マンション中を回ってガス栓閉めの呼びかけ、ドアが開かない家、中で棚に挟まった人の救助、家の中の片付け・・できることを片っ端からしました。幸い私の住んでいる場所は崩壊しませんでしたが、「空き地?」と思っていた場訴は家が崩壊し、何人もの人が亡くなっていたところでした。近所の公民館は避難所兼埋葬場になっていました。
電気は比較的早く復帰し、2日目から使えるようになりましたが、困ったのは水。飲み水や食べ物は2日目以降には近所の公園辺りで配られたのでなんとでもなったのですが、水洗トイレを流すために水が大量に要ります(タンク式はタンクの中に水を入れると普通に流せるので直結式より便利だと思いました)。うちは風呂に水をためていたのでしばらくこれを使っていましたが、なくなると小学校のプールまで水を汲みに。水って重いんだなと実感。余震で水道管が破裂したらすぐさま駆けつけて水を汲み・・・マンションは給水タンクから配水されているのでそのタンクが壊れるとどうにもならず、3ヶ月間この状態が続きました。ガスも同じくらい復旧が遅れました。
風呂に入りたくて震災1週間後くらいに大阪まで出たことがありました。被災地での車移動は迷惑この上電車が出ている西宮北口まで1時間かけて歩きましたが、見慣れた景色がなくなっており涙が出ました。大阪梅田についたとき、あまりにも普通で驚きました。トイレの水が流れる、温かいお湯が出る、電話が通じる・・・日本全部が被災しないで本当によかったと思いました。
当時私は物理的にも精神的にもいちばんゆとりがあったときだったので震災後の周囲の手伝いを頑張ってやらせてもらったつもりでしたが、もっと何かできなかったかなぁと時々思います。反対に闘病中の父が家に留まったのですがどこかに避難させるべきだったかなぁとちょっと思ったりします。水使わないようにトイレ我慢して膀胱炎になったりしましたから。
人も家も無事だったので本当に私の震災体験なんか大したことないのですが、感じたのは、被災地の知り合いを心配して外から一斉に電話したり車で被災地に乗り込もうとすることは逆に被災地にとっては迷惑だってことです。当時は携帯電話も固定電話もあっという間にパンクし、唯一公衆電話だけが通じたので長蛇の列、また、車の渋滞で、医療関係の車がまったく動けなかったりしました。

忘れた頃に・・・・ということわざもありますので時々こうやって思い出すことにしています。

© きずな西大寺法律事務所