2022/11/29ブログ
楽曲や絵画等との属人的な結びつき
有名な曲がBGMに使われることはままあることですが、それが何の曲か気にもしなかったところ、長い年月を経てそれが何か判明することがあります。私の場合、(1)ビゼーのオペラ「カルメン」の序曲と(2)オッフェンバックのオペレッタ「天国と地獄」の《地獄のギャロップ》がそれでした。(1)は、小学校のときの掃除の音楽で、(2)は小学校のときの運動会の徒競走の音楽でした。特に(1)は毎日聴くわけですから、とんでもない回数聴いたことになります。ですので、大人になって何回カルメンを聴いても、私にとって(1)が「掃除の音楽」であることは動かしがたいのです。
また、これらとは少し種類が違うのですが、25年位前にトールキンの「指輪物語」を読んだときに、ずっと(3)ベルリオーズの幻想交響曲を聴いていました。そうすると、「指輪物語」を読み終わってからも、幻想交響曲を聴く度に、フロドとサムが苦労してモルドールに向かって歩いている場面や、アラゴルンらがサウロンの軍勢と戦っている場面が頭に浮かんでくるのです。
しかし、上記のどの例においても、それぞれの曲を、掃除・徒競走・「指輪物語」と結びつけて観念するのは特定の人間に限られます。そうした意味で、上記のような例は、それぞれの曲の普遍的な効果でも何でもなく、特定の状況に応じて生じた属人的な効果に過ぎないといえます。
一方で、その特定人にとっては、善かれ悪しかれその芸術作品について強い思い入れが生じる契機にもなるわけです。
上記に類似した、ただし絵画にまつわる話が「失われた時を求めて」に出てきていたのではないか、と想起しました。
スワンがオデットと大恋愛をするきっかけとなる場面です。
「見たいという版画を持って来てやったところ、オデットは少し加減がよくないからと言いつつ、モーヴ色のクレープ・デシンの化粧着すがたで、豪華な刺繍をほどこした布をコートのように羽織り、それを胸元にかき合わせてスワンを迎えた。オデットは横に立つと、ほどいた髪を両頬にそって垂らし、楽に身をかがめるように、すこし踊るような姿勢で片脚を曲げて首をかしげ、元気がないと疲れて不愛想になるあの大きな目で版画に見入っていたが、そのすがたにスワンは、はっとした。システィーナ礼拝堂のフレスコ画に描かれたエテロの娘チッポラにそっくりだったからである。つねづねスワンは、大画家の画のなかにわれわれをとりまく現実の一般的特徴を見いだすだけでなく、とうてい一般化できない知り合いの顔の個人的特徴を認めて喜ぶという特殊な趣味を持っていた。」(「失われた時を求めて」2巻94頁 《スワン家の方へ Ⅱ》、プルースト著、吉川一義訳、岩波文庫)
「とうてい一般化できない知り合いの顔」ということですから、スワンにしかあてはまらない、属人的な経験を画中の人物にあてはめているのです。ちなみに、チッポラは、旧約聖書の「出エジプト記」に出てくる女性で、ボッティチェリは「出エジプト記」の一場面を題材にしてフレスコ画を描いたのです。
こういった属人的な要素を通して楽曲や絵画をみるのは、本質的ではないのは明らかなのですが、当該個人にとっては局地的な強い効果をもたらすこともあり、このような属人的な結びつきをどう評価したらよいか、私自身は整理しきれていないところです。(松井 和弘)