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2022/11/27ブログ

マールバラ公

前回の記事で、初代マールバラ公の話が出ましたので、彼の功績について触れておきたいと思います。

前提として、マールバラ公が活躍した時代には、フランスがヨーロッパにおいて覇権を握りつつありました。彼は、巧みな軍事作戦でこれを食い止めたのです。

三十年戦争の終盤、フランスはロクロワの戦い(1643年)でスペインに勝利しました。これが、その後ルイ14世がヨーロッパの主導権を握る契機となりました。16世紀以降、強勢を誇ったスペイン軍をフランス軍が打ち破ったのです。27000人のスペイン軍のうち、死者8000人、捕虜7000人、負傷者数千人といいますから大損害です。

「それが、スペイン軍の終末であった。騎兵隊は生き残ったが、彼らは、規律、道徳性において崩れ、輝かしい歩兵を欠いては、役に立たなかった。歩兵こそは、軍隊の強さそのものであったのである。スペインの歩兵は、ロクロワでは、ネルトリンゲンでスウェーデン歩兵が失ったようには、その名声を失わなかった。彼らは、それを保ちながら、死んだのである。・・・ロクロワ前面の戦場の、彼らの陣地の中心に、今日、小さな近代の記念碑が立っている。その気取らない、灰色の一本石の碑は、スペイン軍の墓石であるが、あたかも、スペインの偉大さの墓石であるかのようだ、とさえいえるかもしれない。」(「ドイツ三十年戦争」497頁。C・V・ウェッジウッド著、瀬原義生訳、刀水書房)との歴史家の叙述には、栄枯盛衰を感じさせて心を打つものがあります。

その後、ルイ14世の治世の晩年にスペイン王が亡くなると、ルイ14世は自らの孫をスペイン王に就けようとします。それに対して、フランスの力のこれ以上の強大化を防ぐべく、イギリスやオーストリアが反対しました。そうして始まったのが、スペイン継承戦争(1701年~1714年)です。
ここで、フランス・バイエルン連合軍に対抗してブレンハイムの戦い(1704年)に勝利したのがマールバラ公率いるイギリス軍とプリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍を中心とする連合軍でした。
「軍事史上稀に見る優れた作戦と戦いで、マールバラ公はイギリス海峡を越えてドイツ南部まで600キロ近く進軍し、ウイーンに迫るフランス・バイエルン連合軍をブレンハイムの町で破り、ヨーロッパの勢力図をイングランド優位に塗り替えた。これはその後長い間揺るぎないものになった。ブレンハイムの戦いが『世界の政治の軸を変えた』とは、マールバラ公の子孫ウィンストン・チャーチルの言葉である。」(「ヴィジュアル版『決戦』の世界史 歴史を動かした50の戦い」240頁。ジェフリー・リーガン著、森本哲郎訳、原書房)
この戦いでは、ブレンハイムとオーバグラウの2つの村にフランス・バイエルン連合軍を集中させ、手薄になった同連合軍の中央を、マールバラ公が攻撃したところ、フランス軍は持ちこたえることができず一斉退却をしました。
この戦いの帰結は重要で、「マールバラ公の勝利でバイエルン候は滅び、領地はオーストリアに併合された。栄光あるフランス軍と指揮官らは二度と立ち上がれないほどの打撃を受けた。1714年にスペイン継承戦争が終結し、イギリスはユトレヒト条約によって海上の覇者となったばかりか世界帝国への道を歩むことになった。」(同書246頁)のです。ユトレヒト条約によってイギリスは様々な利益を得たのですが、ジブラルタルもその一つで、この要衝の地はスペインと陸続きながら、現在でもイギリス領のままです。(細かいですが、上記の引用部分だと、ユトレヒト条約が1714年であるかのように誤解しそうですが、ユトレヒト条約は1713年です。戦争終結が1714年なのは、オーストリアとフランスの講和が1714年のラシュタット条約の成立までずれこんだからです。)

ブレンハイムの戦いから300年以上経った現在において、しかも欧州の外から単純に観る限りでは、マールバラ公はイギリスの繁栄を基礎づける戦いを勝利に導いた英雄なのだくらいの認識しかありませんでした。

そうしたなか、オペラ「シッラ」に接することにより、当時彼を巡る様々な政治的立場があったことがわかり、大変有意義でした。このように、歴史の重層性を垣間見ることができるのも、オペラの効用なのだと思うのです。(松井 和弘)

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