#

朧月夜に似るものぞなき

この数か月で読んだなかでは、「葵」と「賢木」のあたりの話の展開が劇的で、一気に読み進みました。
まず、葵祭の見物の際に、後から来た葵上の車が六条御息所の車に乱暴を働いて場所を取ってしまうという車争いが起こります。祭りや花見の際に少しでもいい場所で観たいと思う人間心理は古今東西を問わないということでしょう。
この車争いのエピソードが心に残っていて、葵祭を一度観たいと思って、20年くらい前に一度見に行きました。源氏物語の登場人物は源氏に見惚れていましたが、私は、ゆったりと牛車を引っ張る牛がのどかな雰囲気を醸し出していていいなあと思いました。

その後、六条御息所が物の怪となって葵上を取り殺してしまいます。源氏と紫君の仲が深まるというある意味幸せなことも起きるのですが、桐壺院(源氏の父)が崩御し、源氏は政治的に不利な立場に追い込まれていきます。その後、前回の記事で述べた藤壺の出家が語られ、朧月夜君と源氏の密会が発覚したことが原因で源氏は須磨への退去することになります。

朧月夜君は、「葵」の一つ前の巻の「花宴」に登場します。宮中での宴が終わった後、源氏は、もしかしたら藤壺に会えるかもと一縷の望みを抱いて藤壺のあたりを忍び歩きますが、うまくいかず、弘徽殿の細殿までやってきます。戸口が空いていたので、そっと上がって中を覗くと、「いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、『朧月夜に似るものぞなき』とうち誦じて、こなたざまには来るものか。」【訳:すると、まことに若く美しい感じの声で、並の女房とは思えない人が、「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさんで、こちらの方へ来るではありませんか。】(正訳 源氏物語 第2巻 117頁)
朧月夜君の言葉が「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき」を踏まえている点も、朧月夜の登場場面の劇的さや優雅さに花を添えるもので、この登場場面はいいですよね。

朧月夜君は源氏の政敵の右大臣の娘で、右大臣は朧月夜を帝に入内させようとしていたのですが、源氏はこのことがわかった後も、朧月夜との密会をやめようとしません。そして、この密会が右大臣に露見してしまうというわけです。

このように、「葵」と「賢木」のあたりは展開が起伏に富んでいて、とても面白いと思います。  (松井 和弘)
2021年10月18日

世を背きたまふよし仏に申させたまふに・・・

読み続けられるか不安だったのですが、あの後も、少しずつ源氏物語を読み進めています。「夕顔」、「若紫」、「末摘花」、「紅葉賀」、「花宴」、「葵」、「賢木」、「花散里」、「須磨」、「明石」ときて、今は「澪標」の途中です。今で、やっと全体の4分の1くらいでしょうか。次のブログ担当のときまで、読み続けられているか依然として自信が無いですが・・・

さて、今回読んだあたりで、物語が大きく動きます。
「若紫」では、源氏が紫君を垣間見て感激する場面が出てきます。何故か印象に残る「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠の中に籠めたりつるものを」と紫君が尼君に言う場面です。「犬君(いぬき)」という名前が特徴的だからでしょうか。

「若紫」は、もちろん紫君関連の話が中心なのですが、源氏と藤壺との二度目の過失のエピソードが稲妻のように挿入されています。
その後、源氏は、「賢木」でも藤壺の女房の王命婦に手引きさせて藤壺と密会します。藤壺は拒絶しているのですが、源氏が押し切ってしまうという状況です。
2人が表立って会話するときは、藤壺は王命婦を介して会話し、源氏とは直接話をしません。例えば、「『九重に霧や隔つる雲の上の月をはるかに思ひやるかな』と、命婦をして聞こえ伝えたまふ。」【訳:「(幾重にも霧が中を隔てているのでしょうか。雲の上の月をはるかに思いやっております)。と、命婦を通じてお伝えになります。」】(正訳 源氏物語 第2巻 274頁)。

その後、藤壺の苦悩は深まり、とうとう出家してしまいます。出家の場面も劇的なのですが、その後の源氏と藤壺の距離感の変化の描写におおっと思うところがありました。
例えば、「参りたまふも、今はつつましさ薄らぎて、御みづから聞こえたまふをりもありけり。思ひしめてしことは、さらに御心に離れねど、ましてあるまじきことなりかし。」【訳:「その後は、君が宮の御もとに参上なさるのも、今は遠慮も薄らいで、宮ご自身でお話しになられる折もあるのでした。君のお胸に深く思いしめたことは、決してお心から離れませんけれど、今はましてあってはならぬことなのですよ。」】(同284頁)。
つまり、今までは王命婦を介してしか話さないようにしていたが、出家して源氏との距離感が質的に変わったので、今までのようにさすがに無理な関係を求められることもなくなったので、遠慮も薄らいで直接話をするようになったということなのでしょう。それでも源氏の藤壺に対する気持ちは変わらないけれども、藤壺が出家した以上は、今後も関係を取り結ぼうとすることは「ましてあるまじきこと」なのです。

懸想した相手と直接表立って話できるようになったのは、相手が出家した後、いわば相手が彼岸に行ってしまった後というのには、読んでいて何とも言えない感慨がありました。まあ、どうしようもないのですが・・・

葵上と六条御息所や朧月夜君についても書こうと思ったのですが、藤壺の話が長くなってしまってので、これらについては後日に譲りたいと思います。 (松井 和弘)
2021年10月05日

アンサンブル2(「ドン・ジョバンニ」)

「ドン・ジョバンニ」は、モーツァルトの代表的なオペラの一つで、「コジ・ファン・トゥッテ」や「フィガロの結婚」と同様に好きな作品です(「魔笛」はそこまで好きではないです)。

「ドン・ジョバンニ」には、モーツァルトのオペラの中でも魔術的な曲調が多く現れ、それが情緒に溢れた力強い歌唱と相まって劇的な効果をもたらします。それ以外の部分も名曲揃いで、全編を通じて飽きることのないオペラです。

本作は、スペインの伝説上の好色放蕩な貴族ドン・ファンが主人公で、彼は、何年か前に話題になった「〇〇のドン・ファン」の元ネタです。

まず、本作は、1幕冒頭で、レポレッロ(ドン・ジョバンニの従者)、ドン・ジョバンニ、ドンナ・アンナ、騎士長(ドンナ・アンナの父)、ドン・オッターヴォ(ドンナ・アンナの恋人)が入れ替わり立ち替わり現れて歌うところから始まります。これらは、ドン・ジョバンニのドンナ・アンナに対する悪行と騎士長の殺害という劇的な場面を歌っているのです。オペラの導入部分のつかみとして抜群で、綺麗ではあるものの不安感を煽る音楽で、心がざわつく魔術的な曲で聴衆は一気に物語に引き込まれるのです。

次に、私が本作で最も好きなアンサンブルは、2幕で、ドン・ジョバンニに変装させられて彼の身代わりになったレポレッロが、ドンナ・エルヴィーラ(ドン・ジョバンニの元恋人)、ドンナ・アンナ、ドン・オッターヴォ、ツェルリーナ(農民の娘)、マゼット(ツェルリーナの夫)に追い詰められて正体を見破られるシーンのアンサンブルです。

このアンサンブルに関して、1955年に録音されたヨーゼフ・クリップス指揮のウィーンフィルのものが私は一番好きです。というのも、ドンナ・アンナ役のシュザンヌ・ダンコの歌唱が魔術的としか言いようのないほど心を揺さぶってくるのです(ドン・オッターヴォの後に《Lascia amen all amia pena Questo piccolo ristoro; Sol la morte, o mio tesoro, Il mio pianto puo finir.》と歌う箇所が特に)。

「ドン・ジョバンニ」はよく上演される演目なので、生で何度も観ましたし、メットライブビューイングでも観ました。また、CDやDVDも何枚かは持っていますが、どれも上記のシュザンヌ・ダンコの歌唱と較べると、さらっと流して歌っているようにしか聴こえないのです。
コンサートにしてもオペラにしても、どんなにいいCDよりも生で聴いたり観たりする方が圧倒的にいいので、こういったことは本当に珍しく、シュザンヌ・ダンコの歌唱がいかに優れているか(あるいは私に合っているか)を示していると思います。

あまり時間が無いときには、この2幕のアンサンブルを聴いています。そうすると、それだけでも、大抵は幸せな気分になれるんですよね。 (松井 和弘)
2021年10月03日