2023/11/21ブログ
柏木
源氏物語を読んでいて思うのは、当時は完全な身分制社会で、身分の影響力が現代からは想像もつかないほど大きいということです。身分の低い者ですら、、、といった表現はしばしば出てきますし、身分の高い者が表立って批判されることは少ないです。特に、帝の子であり太政天皇に准ずる地位に昇りつめた源氏は、主人公であることもあってか、非難されたり否定的に描かれることはほとんどありません。源氏は、多才で、風流人で、雅で、鷹揚で、色恋沙汰でとんでもないこと(藤壺との過失)や不用意なこと(朧月夜との関係)をしても結局は何とかなるわけです。
ところが、晩年になって、源氏が上記のような理想的な面のみから成り立っている人物ではないことが描写されます。女三の宮と柏木の過ちが源氏に露見した後の源氏の柏木に対する振る舞いの箇所です。
ところが、源氏は、試楽の催しに柏木を招いたうえで、「『過ぐる齢にそへては、酔泣きこそとどめがたきわざなりけれ。督門督心とどめてほほ笑まるる、いと心恥づかしや。さりとも、いましばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老は、えのがれぬわざなり』とうち見やりたまふに、人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいと悩ましければ、いみじき事も目もとまらぬ心地する人をしも、さし分きて空酔ひをしつつかくのたまふ」【訳:「寄る年波とともに酔って泣くことが押さえられなくなって来ました。衛門の督(柏木)が気がついて笑っていらっしゃるのは何とも恥ずかしいことですよ。とはいっても今しばらくのことでしょう。逆さまには流れない年月ですよ。誰も老いは避けられないものです。」とおっしゃって、督の君をちらっとご覧になりますので、督の君は人よりはことに緊張してふさぎこんで、実際に気分もひどくすぐれませんので、試楽のすばらしさにも目がとまらない気持ちがしています。その人を、何とわざわざ名指しで酔ったふりをしながらこんなことをおっしゃるのです。】(正訳 源氏物語 第6冊 328頁)。
さらに、気分が悪い柏木が回ってきた盃を飲むふりをして紛らわしていたのを、源氏は見咎めて、柏木に盃を持たせたまま度々酒を飲むように強いるのです。
源氏は、その父である桐壺帝の妃である藤壺との過失を思い起こし、「『故院の上も、かく、御心には知ろしめしてや、知らず顔をつくらせたまひけむ。思へば、その世の事こそは、いと恐ろしくあるまじき過ちなりけれ』と、近き例を思すにぞ、恋の山路はえもどくまじき御心まじりける。」【訳:「故院(桐壺院)もこのようにお心のうちではすべてをご存知でおいでになって、知らぬふりをなさったのであろうか。考えてみるとあの昔のことは実に恐ろしく、あってはならない過失だったのだ」と、身近のご自分の例をお思いになりますと、恋の山路に迷うというのは、非難できるものではないというお心にもなられるのでした。】(同298頁)という気持ちに一旦なったものの、結局は、前述のような意地の悪い皮肉を柏木に対して言ってしまうのです。
いくら源氏が柏木と女三の宮の密通に腹を立てていたとしても、源氏のこのような振る舞いは雅で上品なものとは言えず、これまでの源氏のイメージを逸脱するものです。源氏にも、嫉妬や怒りといった負の感情があり、しかもそれを抑えることができないという闇の部分があることが描かれているのです。そしてその闇の部分は、源氏が光り輝くものとして重ね重ね描かれてきたこととの対比から、一層読者に鮮烈に印象づけられるのです。
このような源氏の闇の部分が鋭く描かれることによって、読者は、こんなに理想的に描かれている源氏ですら人の性からは逃れられないのだ、、、と思い至るわけです。
「若菜(下)」の巻のこのような苦みや、「御法」や「幻」の巻の寂寥感は、若い時に源氏を読んだ際と比較して、印象に残りました。このように、源氏物語は、ただ単に源氏の栄華を描いただけにとどまらないわけで、それが物語に重層性をもたらしているのです。
(松井 和弘)